高校生まで跳人(はねと)としてねぶた祭を楽しんでいた、青森県出身の玉田知子さん(59歳)。大人になるにつれ、次第に祭りから離れていきました。そんなある日、久しぶりにねぶた囃子(ばやし)を耳にし、胸が熱くなったと言います。「私、ねぶた祭が本当に好きだったんだ」と気づき、再び跳人になることを決めました。

しかし、その数カ月後、乳がんの告知を受けました。抗がん剤治療では心不全を経験し、神経痛のつらさは今も続いています。副作用に苦しみ、気持ちが沈むこともありましたが、「跳ねることで生きる力が湧く」と、ねぶた祭を支えに治療を乗り越えてきました。

この記事では知子さんがどのようにして病と向き合ったのか、ねぶた祭に込める想いを伺いました。

忘れていた情熱、ねぶた祭との再会


―― 知子さんはもともと、ねぶた祭が好きだったのですか?

はい。私は青森県で生まれ育ち、高校生まで毎年のように跳人(はねと)としてねぶた祭に参加していました。でも、進学や仕事で青森を離れてからは、次第に祭りから遠ざかってしまったんです。

―― ねぶた祭と再会したのは、どんなきっかけだったのですか?
2017年に青森を訪れたとき、観光施設「ねぶたの家 ワ・ラッセ」に立ち寄りました。そこで、館内に響くねぶた囃子(ばやし)を耳にした瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われて……。気づいたら、涙があふれていました。隣にいた夫も驚くほど号泣していましたね。

「私、ねぶた祭が本当に好きだったんだ」と、ずっと忘れていた気持ちが一気によみがえりました。心の奥底に眠っていた熱い想いがあふれ出して、「もう一度跳人としてねぶた祭に参加したい」と思ったのです。その後、ねぶた祭の団体「跳龍會(ちょうりゅうかい)」の存在を知り、入会することを決めました。

 乳がんの告知を受けて「生き方を変える」決心をした


――告知を受けたときの状況を教えてください。

ねぶた祭と再会して「もう一度跳人として跳ねたい」と思った数カ月後に、乳がんが見つかりました。乳がんの定期検診を受けた8か月後だったので、信じられない思いがしました。

精密検査を受ける前の初診で医師から「乳がんです」と伝えられた瞬間、現実味がなくて「えっ?」としか言えませんでした。その頃私は、青森にいる父の介護のために、実家に通う予定でいたんです。でも、癌の治療が始まれば、父のもとへ行くことはできなくなる。父に何と伝えたらいいのか、治療費はどれくらいかかるのか、そんなことを考えながら自宅まで帰ったことを覚えています。

―― 周囲の反応はどうでしたか?
いろいろな言葉をかけられましたが、中には心が傷つくものもありました。「抗がん剤は造癌剤(がんを作る薬)だからやめたほうがいい」と言われたり、生命保険に入っていなかったことを責められたり……。「生命保険にも入らず、今まで何してたの?」と冷たく言われたときは、さすがに落ち込みましたね。

でも、そんな中でも支えてくれる人もいて、私は救われました。とくに主人は、すぐに人に「大丈夫」と答えてしまう私の性格を知っていて「大丈夫じゃないんだから、大丈夫って答えなくていいんだよ」と声をかけてくれることもありました。「なんでも我慢すればいいわけではない」と、ようやく理解できた気がしました。

―― どのようにして前向きな気持ちになれたのでしょうか?
乳がんになったことで、自分の生き方を見つめ直しました。そんなとき、アドラー心理学を学ぶ機会があり、そこには、がんをはじめとするさまざまな疾患を抱えながらも前向きに生きる人たちがいました。アドラー心理学の内容も面白かったですし、色んな人と話すうちに、「私はこれからの生き方を変えよう」と強く思ったんです。癌になったからこそ、「やりたいことをやろう」「好きなことを大切にしよう」と思えるようになりました。

ねぶた祭との再会、そして乳がんの告知。この2つの出来事が、私に「これからをどう生きるか」を考えさせてくれました。

笑い飛ばして乗り越えた、乳がん治療の日々


―― 乳がんの治療はどのようなものでしたか?

抗がん剤治療(術前・術後)や、全摘手術、再建手術を行いました。全部で2年弱ぐらいかかりましたね。抗がん剤治療では、私はアルコール不耐症なこともあり、副作用がとても強く出ました。特に、治療後の帰宅中に心不全を起こしたときは、本当に怖かったです。

抗がん剤治療中は家から動けない日も多かったです。でも、そんなときも私は「生きてるから大丈夫!」と、夫や友人に冗談交じりに話していました。

―― つらい治療の中で、どのように気持ちを保っていたのでしょうか?
私は落ち込むとどんどん気持ちが沈んでしまうので、あえて笑いに変えるようにしていました。たとえば、抗がん剤の影響で髪が抜けたとき、鏡を見て「ゴラムみたいだな」と思ったんです(笑)。そんなことをFacebookに投稿したら、友人から「知子の投稿は暗い気持ちよりも笑える!」と言われて。辛いことだけじゃなく、最後に笑える落ちをつけて発信していたので、みんなが前向きなコメントをくれるのが嬉しかったですね。

―― 治療中も、ねぶた祭とのつながりがあったのですか?
抗がん剤治療を受けているとき、夫が「そんなにねぶた祭が好きなら、ねぶた祭に関わることを一緒にやろう」と言ってくれたんです。それで、夫と一緒にねぶた祭の囃子(はやし)を演奏することになりました。太鼓や笛の音に触れると、体はしんどくても心が軽くなるような気がしましたね。今では、夫もねぶた祭で囃子を演奏するようになり、今ではねぶた祭りを二人で楽しめるようになりました。

がんの治療は本当に大変でしたが、それをきっかけにねぶた祭とのつながりが深まり、夫とも新しい形で祭りを楽しめるようになりました。痛みや不安は今もありますが、ねぶた祭の囃子の音を聞くと、自然と前向きな気持ちになれるんです。

辛い治療を乗り越え、跳人に復帰

―― 跳人として復帰したのは、いつ頃ですか?
治療を終えた後、跳龍會のイベントで跳人として跳ねる機会があり、それが私の復帰戦になりました。そのときは東京駅でのイベントだったのですが、実は跳ねる前はすごく不安でした。「本当に跳ねられるのかな?」「途中で倒れたらどうしよう」って。

でも、いざ跳ねてみたら、体が自然に動いていて、あっという間に終わっていました。跳ねながら、こみ上げてくるものがあって、涙が出ました。久しぶりに跳ねられた嬉しさと、「私は戻ってこられたんだ」という実感が一気に押し寄せてきたんです。友人も「玉ちゃんが跳ねるなら行くよ!」とわざわざ見に来てくれました。復帰できたことも、友人に見てもらえたことも、青森の観光PRになれたことも、すべてが嬉しかったです。

その後、本場の青森ねぶた祭にも参加するようになりました。とはいえ、連日跳ねると体はボロボロです。2日目以降は全身が痛くて、家ではほとんど動けなくなることもあります(笑)。朝、夫に「今日も参加するの?」と聞かれるんですけど、会場に着くと不思議と跳ねられるんですよね。ねぶた囃子が鳴ると、体が勝手に動くというか、魂が呼び覚まされるような感覚です。

夫はねぶた祭が始まると、私の跳人の衣装にアイロンがけをしてくれるんです。「今日も跳ねるんだろ?」って言われているような気がします(笑)。そうやって支えてくれるのがありがたいですね。

―― つらい治療を乗り越えて、また跳人として跳ねるようになったんですね。

本当に、ここまで来られて嬉しいです。乳がんの治療中も、「また跳ねたい」という気持ちはずっと持ち続けていました。でも、実際に跳ねられるようになるまでには時間がかかりましたね。治療が終わったあとも、神経痛が続いていて、最初は歩くのもつらい日がありました。今でも痛みはありますが、少しずつ体を動かせるようになり、最近はようやくテニスもできるようになりました。

それでも諦めずにいたら、こうして跳人として戻ってこられました。ねぶた祭の熱気の中にいると、生きている実感が湧いてきます。体は疲れるし、跳ねた翌日は全身が痛くなりますが、それ以上に「また跳ねられた!」という喜びが大きいんです。今は、跳人として跳ねることが本当に幸せです。

好きなことを大切に、ねぶた祭と共に生きる

―― ねぶた祭の魅力は、どんなところにあると思いますか?
ねぶた祭は、誰でも参加できるお祭りです。跳人(はねと)の衣装さえあれば、初めての人でもすぐに飛び込めます。跳ねるのが難しければ、歩くだけでも大丈夫。実際に、私も治療後すぐには跳ねることができなくて、まずは衣装を着て雰囲気を感じることから始めました。だからこそ、「お祭りが好きだけど、自分にできるかな?」と迷っている人にも、ぜひ参加してほしいですね。

―― 今後、どのように生きていきたいですか?
乳がんは、私にとって人生の転換期でした。それまでは「こうあるべき」と無理をしていた部分もありましたが、病気を経験して「自分が楽しめることを大切にしよう」と思うようになりました。これからは、心と体に負担をかけすぎず、心地よくいられることを最優先に生きていきます。

ねぶた祭もその一つです。跳人として跳ねることができる限りは跳ね続け、もし跳ねるのが難しくなっても、別の形で関わり続けたい。ねぶた祭は青森の誇りであり、私の人生の一部です。これからも、ねぶた祭と共に自分らしく生きていきたいと思っています。


【プロフィール】

玉田知子さん(59歳)

青森県出身。高校生まで跳人(はねと)としてねぶた祭に参加し、2017年に再びねぶた祭と再会。

同年、51歳で乳がん(浸潤性小葉癌、HER2+3)と診断され、術前抗がん剤治療、全摘手術、再建手術、術後の化学療法を経て、2019年6月に治療を終了。

現在も神経痛の後遺症と向き合いながら、ねぶた祭の跳人として活動を続ける。2023年には「ふるさと祭り東京」(東京ドーム)にも参加し、跳人としての喜びを多くの人に伝えている。